悩みのためのカウンセリング、夢分析などによる心理相談室 竹内心理相談室

立場・流派を超えて、目の前のクライエントのために

立場・流派を超えて、目の前のクライエントのために

 私は、大学二年の時に自閉症児や情緒障害児のプレイセラピーにボランテイアのアシスタントとして関わって以来、心理相談室、学校関係のカウンセリングセンター、精神科のクリニック、病院等で子供から大人まで様々なクライエントと関わってきた。セラピーの勉強を始めた頃は、ロジャースの来談者中心療法の全盛時代であり、その他のカウンセリングの技法、プレイセラピー等も学んだが、大学での専門は実験心理学であり、大学院では、指導教官は、自我心理学者だったが、大学そのものがアメリカ中西部の行動療法の中心だったので行動療法の訓練もうけた。

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 その後、京都市の関係の施設等で数多くのケースを受け持ったが、どこか自信をもってセラピーをすることができず悩まされる毎日が続いた。いろいろなクライエントに対し何かうまくいっていないように感じても、どこがどのようにまちがっていて、どうすれば良いのかが本当のところ分からなかった。休みの日でも何か不安でぼんやりとケースのことを考えている時もよくあり、そのためありとあらゆる講座やワークショップに参加し、さまざまな先生に直接教えを乞う機会もあったが、月曜日からの仕事にすぐ役に立つような答えを得ることはできなかった。理論を教えてくれる大学と臨床現場のニードとの乖離を痛感させられたこともあり、三十歳の時に思い切って仕事を辞めスイスのユング研究所に行くことにした。スイスでは、四年間訓練を受け心理臨床家としてゴールではないまでもスタートラインには立てる基礎と自信を得たと思う。帰国して一九八八年に京都で文字どうり小さな心理相談室を開業し、いくつか非常勤で通っている所はあるが毎週三十時間余りのセラピーの仕事を続けている。

 トータルすると三十八年間、「いろいろな場所で、いろいろなクライエントに、いろいろな立場で」関わってきたが、来談者中心療法も、行動療法も、ユング心理学、その他の技法も、アプローチの方法は異なるとしても正しく応用すれば、人の心のケアの本質に変わりはないと考えている。しかし、セラピストの側の流派や立場の違いと相互の協調性、互換性の欠如が、現場臨床に及ぼしている弊害は計り知れない。「どんなやり方でも、心の悩みが治ればよい」というクライエントの当然の立場に立って、流派を超えた協力ができれば、はるかにベターなケアが提供できると思う。

行動療法と心理療法

 行動主義(Behaviorism)では、、すべての行動は学習されたものと考える。だから、問題行動も、行動療法の手続きによって消去し、それに代わる適切な適応行動を再学習させて置き換えれば解決できるわけである。

 アメリカの大学院で行動療法を学ぶと、簡単な理論と手続きを教えた後、すぐに身近な問題行動をとりあげて、行動療法のプログラムを組ませ、実地に行わせて、その結果を発表させる。この即実践実用主義は、アメリカの大学のいいところで、余分な能書きの一切ないところ、あまりあっさりしすぎて物足らなく感じるくらいである。
 わたしは、障害児の施設を紹介してもらって、授業に集中できない生徒のためのプログラムを組み、数週間、教室で、その生徒にはりついて、注意がそれるという問題行動を消去し、注意集中の時間を少しでも増やすための行動療法を行って、その結果をレポートとグラフにしてクラスで発表し、全員でケースカンファレンスした。それぞれのやりかたは未熟でも、この方法でいろいろな場合のケース研究を重ねていると、基本的なことは、極めて実際的な形で理解でき身にもついてくる。

 クラスメートの一人は、当時の私(二十四歳)からすると、少し年配の主婦で、子育てが一段落して、勉強を再開された人だったが、身近な問題行動として、夫の飲酒をとりあげ、「飲みすぎ」という問題行動を消去して、「適量の飲酒」という行動を再学習させる行動療法のプログラムを組んだ。新たな行動の再学習を強化(reinforcement)する報酬は、彼女自身の性的サービスである。つまり、その日の夫の飲酒が、たまたま設定された適量を下まわった場合にのみ、いつもよりセクシィな下着で濃厚なサービスを提供するというスキナーのオペラント条件付けにもとずいたプログラムである。

 彼女も、実験結果をレポートとグラフにしてクラスで発表し、皆でケース検討したのだが、彼女の予想とは反対に、夫の酒量は増え続けた。なぜそんな結果になったのか、発表者本人は、しきりに不思議がり、新しく習ったばかりの行動療法の効果を疑問視すらしていたのだが、他のクラスメートのほぼ全員(特に男性)には、その原因は分かっていた。彼女が、報酬として提供したサービスは、報酬としては機能せず、むしろ罰(punishment)として機能し、被験者は、酒量を増やすことによって、そのサービスを避けられることを学習したのである。実験結果のグラフは、行動療法が、いかに有効に機能するかを証明するのに充分な見事なカーブを描き、酒量は、実験前と実験後の平均値で、実験者の期待とは真逆の有意差のある値を示していた。講師は、強化価値(reinforcement value)という概念を説明し、同じ報酬であっても、提供される相手や状況によって、その価値が異なると解説した。同じご褒美のハグでも、誰にされるかによって効果が異なるということである。

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 彼女の「気づき」をスムースに行うために、受容や共感をベースにした別のタイプの心理療法のカウンセラーならどうするだろう。ロジャース流なら?精神分析各流なら?論理療法なら? それぞれにやり方はあるだろう。しかし、扱う対象が、デリケートな心をも
った生身の人間であることだけは変わりはない。共通の目的が、クライエントの問題の解決であるかぎりは、アプローチの方法は 、いくつあってもかまわないが、各種のアプローチ間の対立は、最も根本のところでおかしくはないだろうか。それぞれのクライエントに合わせて、ベターな方法が選ばれればいいわけだし、いくつかのやり方のミックスがあっても当然かまわない。例えば、この講義のケーススタディに、別のタイプの心理療法家が参加していれば、もっと実り多い議論ができるだろう。

 各流儀の議論を机の上でぶつけあえば、イデオロギー論争になって、永遠の議論を続けることはできるだろうが、そんな不毛な論議が好きならともかく、それよりも、「この目の前のクライエントにとって、どうゆうケアが、最も有効であり現実的か」ということのみを主題にすれば、十分に協調の余地はあるはずだし、もともと、そのような互換性、可塑性、普遍性を有しない心理療法にどれだけの意味があるだろうか。心理療法各派は、流儀間の互換性の向上に、もっと真剣に取り組まなくてはならない。くりかえすが、いずれも対象としているのは、同じ人間なのだから。

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 とりわけ印象的な思い出があった。実習中に、生徒たちと消防署へ見学に行く機会があった。トークンリワード(token reward)の積み立てによって、特に大きなご褒美をもらえることになっていた男の子がいたのだが、施設のバスが消防署につくなり、署長が乗りこんできて、「ミスター・ウェランはどこにいますか、ミスター・ジム・ウェラン(仮名)はどこですか。すばらしい男の子だと聞いているので、今日の見学隊の隊長に任命することにしました。」と言って、小さな消防士用のヘルメットを、その男の子にかぶせた。男の子は、始めは何が起こったか分からず、ただ当惑していたが、事情が分かると、とてつもなく大きなバルーンのようにふくらんで(アメリカ俗語の表現で、とても得意げになって)、おそらくは、一生忘れられないすばらしい思い出の一日を送った。これは、もちろん、施設のスタッフが、見学先の消防署長に頼んでやってもらったことだが、こういうアメリカ式の芝居がかって粋な報酬の選び方、与え方は、有効でもあれば、感動的ですらあって、その施設の行動療法の効果を大いに納得させられた理由の一つである。

 「行動療法であれ、他の手法であれ、各流儀間の違いよりも、同じ流儀の中での上手下手の違いのほうが、はるかに大きい。」と別の講師が言ったが、いずれの学派に属していても、名人は「同じ人間をケアしている」という共通の基本を忘れないのである。

医師と臨床心理

 現状では、医療現場には確かな心理職の立場は「無い」と言っても過言ではないと思う。それ故、医師に匹敵する国家資格を作って心理職の立場を確立しようという気持ちは痛い程分かるのだが、それだけでは、複雑な医療現場の人間関係に新たに深刻な対立の軸を加えることになりかねず「クライエントのための立場を超えた協力関係」はかえって困難になるのではないだろうか。それよりも、心理職が本当に現場で通用する専門性を獲得し、周囲が認めざるをえないような実力を着実に養っていく方が、より少ない摩擦で医療現場に浸透していく早道だと思う。医学とは異なったアングルからアプローチし、医師には言えないような視点、指摘と実行力を示してベターなケアに貢献することで、根気強く立場を築いていくしかないと考えて、さまざまな試みと努力を重ねてきた。

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 例えば、幻覚・妄想様の症状がありながら、その内容が通常の統合失調症の幻覚・妄想とは異なっている一群のクライエントの問題がある。医学のサイドからは、彼らには、薬の効きが悪いという共通点があるらしい。もちろん、私は、薬物治療については全くの素人なので、協力している医師たちから聞くしかないのだが、「全般的に薬の効きが悪く、人によっては殆んど薬に反応していないかのような常識では考えられない患者もいる。」とのことである。
一方、ユング派の分析家の視点からすると、普通、統合失調症の幻覚・妄想は、夢のような内容の豊かなストーリイ性を持たないので夢分析の方法に乗りにくいのに対し、この一群の幻覚・妄想が、ある程度、夢分析の手法で解釈しうることが、本質的に異なる共通の特徴である。

 私は、彼ら病気は、かなりはっきりした幻覚・妄想があっても、統合失調症とは系統の異なる病気であろうと考えている。この病気も、躁鬱様の症状を伴うこともあるのだが、統合失調症でも躁うつ病でもなく、それ以外のいわば第三の精神疾患というべきもので、仮に「自己同一化型人格障害」と名づけている。ここでの「自己(セルフ)」は、ユング心理学の概念なので、精神分析にアレルギーの強い医師には受け入れてもらえないが、このタイプのクライエントは、自我(エゴ)が「自己」内に同一化され、イメージと現実の世界が混同しているため(図1)、幻覚・妄想の内容が夢と近似し、夢分析の手法で解釈が可能なのだろうと推定している。自我と「自己」が同一化すると、自我は人工的なイメージを作り、その中にひきこもることができるので、それが夢の内容に近い幻覚・妄想様の症状となり、そのイメージで周囲をまきこみ、現実を自分に都合よくコントロールできそうな場合は、躁様の心理状態になり、外的内的ななんらかの理由で、そのバブルがはじけた場合に、重い鬱様の状態になる。いわゆる「新型鬱」も、この延長上で考えた方が分かりやすいのではないだろうか。

 この「自己同一化型人格障害」の概念は、ユング心理学の心の構造についての考え方を認めないと説明できないので、医療現場では、相手を選んでしか言わないのだが、「特定の病気の薬が効かなければ、それは別の病気である。」というのも薬物療法の原則の一つなので、ある程度、耳をかたむけてくれる医師もいる。幻覚・妄想様の症状までは無くても、このタイプのクライエントは、神経症程度のレベルまで存在するので、その圏内なら、精神分析、心理療法、カウンセリングで十分に対応できる。ユング心理学の視点から言うと、日本人の自我は、欧米人と比較して、「自己」に近いところに定位するので(図1)、自己同一化型人格障害のクライエントは多いと考えられる。あくまで私見による仮説とはいえ、一つの問題提起にはなるのではないだろうか。

雲

 精神分析的手法が、単独で精神病圏のクライエントに有効だとは考えられない。本物の統合失調症で、「死ね、死ね」というような幻聴が聞こえている人には、精神科的ケアは必要だし、時々おられる
刃物を見ただけで、自他傷してしまいそうな妄念にとりつかれてしまう人は、一旦スイッチがはいってしまうと、どんなに優秀なカウンセラーでも、「中心性を見失わないでともにいる」といえば聞こえはいいが、大汗をかいて、危機的な行動を実行されないように監視し、考えが極端にならないように会話することしかできない。これを、薬物で制御するか、未然に防いでもらえるなら、実際問題として、これ程助かることはない。こういう場合、その他のケアは、副次的なものにならざるを得ない。

 クライエントの為には、医師との協力は欠かせないのだが、医療現場では、精神分析的カラーは、隠さざるを得ないときもある。特に、分析家資格など持っていると、便利な時もあるが、変に意識したり、中には、攻撃的になる医師もいるので、状況、相手を見きわめて発言を調整する。医療現場への心理職の浸透には、なにより忍耐と根気を必要とするが、さまざまなクライエントに実際に応用しうる見方、方法を、相手のプライドを尊重しつつ、低姿勢に粘り強く提案していけば協力は可能と信じている。もちろん、「医師とだけでなく、臨床にかかわる全職種が、立場や流派、従来のいきさつを超えて協力し合うことが、クライエントの為になるという思いの強さ」と「実力に秘かな自信があれば、低姿勢でも卑屈にはならない」ことで、自分を支えている訳である。なにしろ、「立場が無い」のだから。

学校現場での臨床心理

 個人開業以来、二十数年になるが、特に近年、いままでのセラピーのやり方が通用しにくくなっていると実感している。社会の常識や枠組みが失われるとともに、クライエントの症状も、かつてのようなはっきりとした精神病理学の教科書の記述にあてはまらないケースが増え、いわばボーダーレス化しているため、既製のセラピーが通用しにくくなってきている。例えて言えば、常温常圧を前提として成立し通用してきたカウンセリングやセラピーが、常温常圧という前提が失われたために役に立たなくなっている。この状況は、学校現場でも変わらず、臨床心理の仕事は、困難でリスクの高いものになっている。

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しかし、常温常圧の条件がなくなったといっても、物理の法則が無くなったのではないように、ボーダーレスな状況でも通用する新しいセラピーのやり方もあるはずだと考え、かつて学んだ総てをバースにして、常温常圧を前提としない状況の下で通用し、さまざまなクライエントに対応しうるセラピーを模索しつづけてきた。
 たとえば、心理テストを用いるならば、クライエントの問題の内容と程度、そして、とりあえずどういうケアが必要で、中長期的にはどういう処遇をしていくか、ゴールとしてなにを目指すかという「診たて」ができうるかぎり正確に具体的にできて、なおかつそれを難しい専門用語や、こじつけに聞こえる論理、神秘的で訳のわからないあいまいな表現を用いずに誰にでも分かりやすく説明できなければ、学校現場でもどこでも、プロとしての信頼と尊敬を得ることはできない。

 つまり、登校拒否のケースならば、なぜ学校に来れないのか、主たる原因は何なのか、心の問題の内容と程度はどれくらいで、心理療法だけで扱えるのか、別の職種との協力が必要なのかなどについて、心理学を学んだことの無い例えば父兄にでも分かるように説明できて納得してもらえるような本当に役に立つ技術が必要である。このことは、私のところでは、夢、箱庭でなくても、バウムテスト、風景構成法、コラージュ等を、ユング心理学の絵画分析の手法を援用して解釈することによって、今では、ほぼ確実に可能である。広言ととられては困るが、私の相談室やいろいろな場所で、毎日、毎週やっていることである。

 学校では、かつてなら精神病院か専門の施設でしか見られなかった病的なエピソードや症状のある生徒・学生が急増している。教員たちは、教育の専門家ではあっても、臨床心理の専門家ではないので、「変な行動」と思っても、その意味が分からず振り回されることが多い。不登校からリストカット、反社会的行動まで、ちゃんとした原因が特定できないので、「羹に懲りて膾を吹く」ことになったり、「さわらぬ神に祟りなし」で問題を先送りする。結局、大学・大学院は、自立できない学生であふれかえっている。幼稚園から大学まで、教職も、かつてないほどリスクの高い仕事になっているのだが、学校における心理職の仕事は、先生たちに本当に役に立つ知識や技術を、自ら実践的に提供することで、問題を先送りせず、「青少年の健全な自立」という教育本来の目的のために立場を超えて協力しあうことだと思う。

 しかし、学校は、教育施設であって、治療施設ではないので、心理テストをすることそのものにリスクを伴う場合もある。「ウチの子供に勝手に訳の分からんテストをして、心の病気ときめつけた。」という親のクレームが教育委員会などにいくことがある。人権問題にされると学校側は大変弱いので、現場で目に見える症状と言動を分析することだけで、心の問題の内容と程度を推定するしかないが、それには、相当幅広い経験と技術を必要とするし、その結果をどこまで伝えていいのかにも気を遣う。最近はあまりに父兄のあまりに無理なクレームが多いので、父兄の要求・言動から、その表裏の真意を早く読み取り、適切に対応するための手作りのマニュエルを作って、教育分析で訓練している学校関係者等に配っているが、この父兄からのクレーム対応の難しさほど、教職員の神経をすり減らすことはない。

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 現代の混乱は、日本では、文化の「母―息子」軸が崩壊し、「男―女」軸に移行する過渡期にあることによるものと考えているが(「こころの科学」一九九四年五月号拙文参照)、母―息子文化のリーダーは、太母的紐帯にもとずく和を保つための調整型の「よき長男」タイプであることが多い。したがって、校長先生や管理職は、主にバランス感覚で出世しているので、危機管理能力や荒事に弱い。この文化では、ロックンロールなどと言っても賢母的女性に支えられた「やんちゃ」の域をでないのであるが、その賢母の支えとコントロールを失った「桁外れに甘えたやんちゃ」なクレームには対応できない。これに報いられない母性性と満たされない女性性が暴走して向かってくると、「よき息子的男性性」では、とても制御できない。そして、管理職が、現実逃避したり、責任転嫁したり、保身のために問題を先送りしようとすると、職員は、自己防衛や責任のなすり合いに走らざるをえないので、人間関係は、タテ・ヨコともに悪くなる。これは、学校のみならず、日本のあらゆる組織に進行しつつある現象であるが、結果として生徒やクライエントのケアは、ますます置き捨てられていく。

 確かに、どの現場もルーティンの仕事も加重で余裕が無いのは無理もないのだが、どこへ行っても「自分たちが一番大変」という自己被害意識に閉じこもりがちである。しかし、これだけ不可解な心の問題が蔓延している状況をふまえて、教職、ケースワーカー、心理職、医師、看護職、あらゆる心のケアに関わる専門職が、それぞれの「目のまえのクライエントのための最良のケア」を考えることのみを共通項として、カンファレンスをすることはできないだろうか。もちろん、それは、あらゆる立場・流派を超えた円卓会議であり、どんなに時間がかかっても実現せねばならない「夢」である。

ユング心理学における心の構造

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